草間彌生展「永遠の永遠の永遠」を見て。ベクトルの違う表現。

9月7日まで秋田市エリアなかいち、アトリオンでは、
草間彌生展「永遠の永遠の永遠」が開催されている。

一見して苦手な世界観なのは行く前から分かっていたのだけれど、
表現に触れる機会を少しでも増やしたくて、
数日前、時間の合間を見て行ってきた。

草間彌生展に行った後、ぼくは気分が悪く、頭が割れるように痛み、
「なんでこんな代物を見に行ってしまったのだろう」という深い後悔と、
「ここまで影響を与える作品を作るのは確かにすごい」という感服の思いと、
どちらも同じくらいの割合で心を支配されてしまった。

「どうしてここまで草間彌生の作品に拒否感や覚えるのだろう。」と、
考えていたのだが、それは表現したいもののベクトルが違うからだと思った。

幼いころの幻覚を克服するためにドット模様を
延々と書き続けているという案内があったが、草間彌生の作品は、
「不快、恐怖の対象を作品にしている」ことが多いように感じた。

確かに、作品を作る上で過去の手痛い経験や
辛い思いを作品に込めることはよくあることだと思う。
その思いが共感を生むこともあるだろう。
しかし、その共感が、「確かにこんな風な辛いことあったよな」とか、
「辛い思いを代弁してくれているようで慰められる」というような共感ならばともかく、
草間彌生の作品は共感する限度を越えて、
嫌悪感を覚えるほどの不安や恐怖を与えてくるように僕は感じた。

そんな作品を作ることは、誰にでもできることじゃない。
でも、少なくともぼくはそんな作品を作りたくない。

「愛はとこしえ」「LOVE FOREVER」というようなメッセージが根底にあるとして、
一体どれだけの人がそのメッセージを感じることができたのだろう?

ぼくはもっと寄り添いたいと思う。
聞いてくれる人がほっとするような、心のささくれが癒えるような、
辛い思いを笑い飛ばすかのような、悲しい思いを代弁するかのような、
大事な風景を切り取って、思い出を鮮やかに甦させるような、そんな歌を。

こんなにも強烈な思いにさせてくれた草間彌生とその作品群に感謝したい。

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